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ProductionNote

プロダクション・ノート

ピアソラは語る

8歳の時に父親が、初めてのバンドネオンをくれました。以前に何度も頼んでいたスケート靴と勘違いし喜んだのですが、そうじゃないと分かったときは、かなりがっかりしました。「アストル、それはタンゴの楽器だ。お前に弾き方を習って欲しいんだ」と父。タンゴは、仕事から帰ってきた父が毎晩聞いていた音楽ですが、私は好きではありませんでした。

2,3人のエセ批評家たちが、まだ私について「タンゴを殺した」と言っているのに驚きました。真実はその逆で、私を「タンゴの救世主」だと見るべきです。タンゴに美容整形をしてあげたんですから。

私は、すべてに対して、高い自制心を持ち続けています。恐らく、だからこそ、ニューヨークで一番のギャングになろうと思ったんです。私は暴力的な社会の中で育ちました。それは、生涯ファイターであり続けるということなのですが、それは疑う余地がなく、私の音楽の一部を形作っています。そしてそのすべてが、あなたの心を強く捕らえているのでしょうね。

私には素晴らしい先生が3人いました。最初の偉大な音楽教育者にして20 世紀音楽の陰の功労者ナディア・ブーランジェは、「交響曲などやめて、タンゴにあなたのすべての力を注ぎなさい」と言いました。2番目に、ラテンアメリカでもっとも重要なクラシック作曲家のひとり、アルベルト・ヒナステーラ。3番目は、寄宿舎の冷たいベッドルームや、40年代のキャバレー、ボックス席やオーケストラ席のカフェ、昨日と今日の人々、そして道端での音の中に見つけました。この先生の名前は、“ブエノスアイレス”です。それが、私にタンゴの秘密を教えてくれました。

私はエゴイストで、自分のことと、自分の音楽だけを考える人間です。他人に、自分の物を触って欲しくない。それは誰も触れることが許されない宝物、私の魂が宿っています。時々、自分の世界に完全に飲み込まれてしまって、元に戻るのが難しい時があります。常に孤立していますし、政治にも経済にも、現代社会の真のモチベーションにも興味がないことが分かると思います。

監督は語る

ベルリン国際映画祭で映画『Saluzzi』を上映した後、予想もしなかった招待状が届きました。それは、アストルの息子であるダニエル・ピアソラからでした。「誰も私の父について、クオリティの高いドキュメンタリーを作っていないなんて…。彼の人生は、映画を作るのに完璧だった。3ヶ月間サメ釣りに行き、4ヶ月間作曲をし、その後はツアーに出てたんだよ」

脚本を執筆中、ピアソラがサメと闘っているのを想像しながら、私が初めて出会った心に染みる名曲「タンゲディア」も思い浮かべました。幼い頃ピアノを習っていて、「天使の死」か「アディオス・ノニーノ」を弾くことが楽しみでした。“哀愁”ということにはおそらく、子供時代に戻る秘密があり、ある瞬間、別の哀愁を思い出させるんです。それが私の場合は、ピアソラのバンドネオンなんです。

ピアソラは“音楽的いろは”の創造者であり、彼がこんなにも有名になった所以であり、この独自性が、本作で伝えなければならないことなのです。しかしながら、この音楽はどこから来たのか?と聞かれると、ピアソラの強さや、音楽的な哀愁の、秘密の源が何なのかはわかりません。ですが、彼の逸話のすべてに出てくる、見えない糸があるのです。つまり、ピアソラがいつも“運命”と言っていた、これらの小さくも意義深い偶然があるのです。

ピアソラの音楽とは、もし幼少期、1927年のニューヨークで、ボクサーのジェイク・ラモッタの集団で闘っていなかったら、もしくは作曲家として、1942年にタンゴ純粋主義者たちに攻撃されていなかったら、そして、彼の教師であるナディア・ブーランジェが新しいタンゴへと彼を導いていなければ、現在のようなものにはならなかったでしょう。回顧録で彼は、これらの物語のひとつひとつが運命だったと語っています。それはまるで、彼の音楽の始まりは、誘惑(セイレーン)を呼ぶ歌であり、「私は座してチャンスを待たない」という言葉で、それを完璧に言い表しています。

伝統を壊し、新しく未知の方向へと向かうすべての素晴らしいアーティストたちがそうであるように、ピアソラのアートの土台は、シンプルではありませんでした。同じことが彼の性格にも言えます。政治への多岐にわたる見解を説明するため、「音楽のことだけを考える」と発言しました。彼は、フィデル・カストロ(キューバの政治家・革命家・軍人・弁護士)のために演奏し、サルバドール・アジェンデ(チリの第29代大統領/1970~1973年)と親しい関係を結んでいました。その後、アウグスト・ピノチェト(チリの第30代大統領/1974~1990年)のために演奏し、「ガルデルの亡命」を作曲、そして、アルゼンチンの独裁者であるホルヘ・ラファエル・ビデラ(第43代大統領/1976~1981年)に会いました。そのことがきっかけで、フリオ・コルタサル(アルゼンチンの作家・小説家)の反感を買い、更に娘ディアナを怒らせ、彼女は最終的にメキシコに亡命してしまいました。

語り手ありきのドキュメンタリーではありません。冒頭から美的な表現集を作るために、私は下記の手段を使いました。

A)アーカイブ素材:ほとんどが、ldeale Audienceによって行われた、4年に渡るリサーチの成果で、スーパー8で撮影された未公開映像や、組写真のモンタージュ、様々な国で行われたインタビュー、時代背景を作るためのアーカイブ映像、そしてもちろん、ピアソラ家のアーカイブ。
B)ピアソラの物語をダイナミック、且つ劇的に表現するため、撮影された一連のシーン。映画的で雰囲気のある言語を作り出すetc. 観客の好奇心を引き出し、ナレーションと対照的なものを示す力強い映像。アストルの息子ダニエルという、広大な海でのナビゲーションのような人物のシーンが、他の物語の導入を可能にする。
C)様々な国のアーカイブから、ピアソラが自分の曲を演奏するコンサート映像や、他の有名なミュージシャンたちが彼の曲を演奏している映像。
D)自分の経歴についてのインタビューにおける、ピアソラ本人の音声。